土曜日から今日にかけて、いろいろとつらいことが次から次に襲いかかってきて、どうしてこんな目に遭わなければならないんだろうと思いながらも、なんとか日々を過ごしてきました。
十年選手の病者で、病気を受け入れるより他に仕方がなく、我が身に降りかかってくるものの理不尽さを嘆くことはこれまであまりなかったのですが、うつになってからいよいよ耐え難いと感じることも多くなってきました。
根本的なところにあるものは、うつによる私の認知の歪みにあることは分かっています。それでも他者に痛みを理解してもらうことの難しさを痛感したこの数日間でした。
「なんで私がうつだと分かっているはずなのに、そんなことをわざわざ云うのかな……」と肉親に対してモヤモヤしてしまうこともありました。
弱っているときに相手にわかってほしい、寄り添ってほしいと思ってしまうのは、私の甘えなのかもしれません。行き過ぎた欲求の波に飲まれてしまうと、途端に地獄が目の前に開けてしまうなと感じます。
だから既存の宗教(キリスト教)をよりどころにすると決めたのに、人というのはどうしても弱い存在なのだなということを改めて感じるとともに、自分の愚かさや至らなさを思い知るのです。
ミッションスクールに通っていた頃は原罪という言葉に違和感を覚えていましたが、私はやはり人としての「弱さ」(社会的弱者という意味ではなく、常に善を行うことができない人としてのありようという意味において)を持っていて、それは「罪」に他ならないのではないかと思うようになりました。
だから「罪」を「神」に「赦される」ことが何よりも必要であり、また同じく「罪」を抱いている他人を「裁かない」ということにキリスト教は重きを置いているのだなと。
私は洗礼を受けたわけでも、教会に通っているわけでもないので、そういう理解として聖書を読んだり、片柳弘史神父の本を読んだりしているわけですが。
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キリスト教における「赦し」についてはもっと勉強をして理解を深めたいと思っているところです。実のところこれも個人的な解釈に過ぎないので、妥当なのかどうかはわかりません。
ところでそのつらい思いに駆られたときに、手を動かしていると幾分か楽になるということに気づきました。
具体的に云えば料理を作ったのですが、最近気に入っている加賀谷玲さんの「花想曲」を流しながら野菜を切っていると、少し心が軽くなりました。
ふと禅のことを思い出して、禅宗の修行では料理を作ることや掃除も修行なのだよなぁということを思い出しました。
先日も「一掃除二信心」という言葉を思い出して、リビングやお風呂の掃除をし、ゴミを片づけていたら心のもやもやが晴れたことがありました。
うつでもできることをすればいいんだ、と前向きな気持ちになれたのは、やはり禅の生活に根ざした宗教としてのあり方のおかげかなと思っています。
最近はうつでなかなか満足に自炊ができず、主人にも何かと迷惑をかけてしまっていたのですが、最低限ごはんを炊いてお味噌汁を作ろうと決めてからは、少し心が楽になりました。
今日もそうして台所に立って料理をしているうちに、禅のことももっと勉強したいという気持ちになりました。
私は昨年こちらの本を読んだのですが、記憶が曖昧なので再読したいところです。
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以前読んだときの感想はこちら。
同番組を観ていたのだけれど、テキストでも読みたくなって購入。禅に関する本はこれまでにも読んできたものの、より禅の教義について掘り下げられていて勉強になるとともに、我が身を振り返って至らないところがあるのをまざまざと思い知らされた。「生かされている」という視線は普段生活していてつい忘れてしまいがちだけれど、実際周りを見渡してみるといかに自分が恵まれているかということを思わずにはいられない。そのことに感謝しながら前を向いて歩んで行きたい。
それからこちらは積みっぱなしなので、近々読んでみたいと思います。
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なかなか前向きな気持ちになれずにいる日々が続いていますが、こうした書物や宗教の教えが、少しでも気持ちを上向かせてくれることを願っています。