フィジカルの周期がめぐってきたこともあって、今日はいちだんとつらく、実家LINEにもつい弱音を吐いてしまったのですが、今日一日で実感したことはいろいろとあって、その最たるものが
「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞のパターンに。目の前の風景は地獄なんかじゃない。逃れられますからね。目を閉じればそれだけで消えるし、ぼくらはアメリカに帰って普通の生活に戻る。だけど、地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭のなかにあるんですから」――伊藤計劃『虐殺器官』p52
|
という一節です。
この台詞は『虐殺器官』の中でも特に象徴的な言葉で、この一言を書きたいがために伊藤計劃はこの作品を書いたのではないかと私は思っているのですが、それはともかく、どんな言葉を与えてくれたとしても、他人は救ってくれない。「私の地獄は私のもので、そこから逃れるすべはどこにもない」ということを痛感しました。
どうしようもないので、旧約聖書の詩篇を読んでなぐさめられたり、やまと尼寺精進日記の如月回を観て癒されたりしていたのですが、夜になってそろそろ夕食を作らねばという時になって、「もはや徳を積むしかこの地獄から逃れるすべはない」ということに思い至りました。出家するわけではありませんが。
私は調子を崩すと調理ができなくなるので、お弁当に頼りがちなところがあったのですが、以下ふたつのnoteのことと、やまと尼寺精進日記のことを思い出して、「とにかく具沢山の味噌汁を作ろう。途中で脳死するかもしれないけれど、ひとまず作ろう」と取りかかることにしました。
いつもの脳死レシピだと、お味噌汁は小松菜・豆腐・えのきで作ることが多いのですが、このタイミングでキャベツをひと玉買ってしまっていたため、救済すべくキャベツも入れました。救済されたのは私の心もいっしょで、キャベツだけではなかったみたいです。
それから納豆と、レンチンした玉ねぎにバターを乗せてめんつゆで和えたもの。
もともとのレシピはこちらです。
ネギも鰹節も切らしてしまっていたので、仕方なくアレンジすることに。
結果的にポン酢よりもやさしい味に仕上がりました。
私の料理のモチベーションはすべて夫にかかっていて、夫を少しでも楽にしてあげたいという気持ちと、うつでどうしようもなく動けないという葛藤の板挟みになって苦しんでいたのですが、とりあえずごはんとお味噌汁があれば、あとは好きなお惣菜を買ってきてもらうなりできるなという気づきを得ました。
夫にいくらかでも迷惑をかけずに済んだ、というだけでも心が軽くなりますし、なにより具沢山のお味噌汁は野菜もたくさん摂れるので、いただいてみると安心感が増します。
「専業主婦なんだし、本当はもっと料理を頑張らないといけないのに」とか、「100%の料理を作らなければダメなんだ」とか、「前はもっと頑張れたのに、今の私は全然ダメで、世間にも顔向けできないぐらい落ちこぼれな専業主婦なんだ」とか私は気づかないうちにたくさんの思い込みを抱えてしまっていたようです。
そういう認識の歪みが少し矯正できたかな、と感じた一日でした。
私はなかなか自分のために頑張れない人間なので、ひとに対して善行を積むぐらいの気持ちでないと頑張れないのだなということも改めて実感しました。そうでなければ自分自身も救われないのです。
私はもっぱら神道を信仰している人間ですが、そういう意味では仏教やキリスト教など、旧来の宗教の勉強をしてきてよかったなと思っています。
これからも謙虚な気持ちで、しかも溺れすぎることなく、旧来の宗教のことを学んでいければと思います。スピリチュアルだけは何が何でもお断りですが。
本当は禅宗のように「陰徳を積む」などとかっこいいことを実践できるようになりたいのですが、そこまで人間ができているわけではないので、こうして形に残すことにしました。