同棲をはじめてから、人から花瓶をいただくことが増えた。
母はいくつかフラワーベースを贈ってくれて、時々切り花を生ける他はほとんど使わずにきてしまったのだけれど、昨日は主人と散歩に出かけて、シロツメクサやカラスムギが咲いているのを見かけて思わず摘んで、道中で見かけたヒメジオンなどもいくつか摘んで、ようやく福岡土産だというフラワーベースに生けた。
それまではお店で切り花を買って生けることがほとんどで、道ばたの野草を摘むことはほとんどなかったのだけれど、こうして生けてみると美しい。
母はお店で売っている花よりも野草や野の花を好む人で、池坊を習っていた時期もあるらしい。結婚の挨拶に帰省したときにも、野の花を摘んで生けて出迎えてくれた。
これはひとり用の火鉢を母方の祖母宅から譲り受けて、野草を生けたのだという。
ちょっとターシャ・テューダのような雰囲気が醸し出されていると感じる。
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挨拶の手土産に千疋屋のミルフィーユを持参すると、美しく器に盛ってくれたので写真に収めた。
私はその野趣溢れる雰囲気がちょっと苦手なところもあって、これまで好んで生けてこなかったのだけれど、こうして生けてみると、なんだか親しみも湧いてきて、ほっと心がほぐれる。
一夜明けて、長崎県産品の彼杵茶でお茶をしながら花を眺めて、その楚々とした姿に心癒された。
決して派手なところはないのだけれど、野の花にはほっと人の心を安らかにする力があると思う。
そして、ふと「花瓶を贈るということは、プレゼントを受け取る人の心安らかであるようにと祈るということなのではないか」と気づいた。
正直なところ、花瓶を贈ってもらっても、気持ちにゆとりがないとなかなか花も生けられないので、かえってプレッシャーに感じてしまうことも多かった。
それでもこうして生けた花を目の前にしてみると、素直にありがたいと思う。
思えば主人も去年の私の誕生日に花瓶とバラの花を贈ってくれた。
その数日後のクリスマスに山尾悠子『小鳥たち』の栞つきサイン入り特装本が届いたので、写真を撮った。
花は心をなぐさめ、花瓶はそれを生ける豊かさを生活にもたらしてくれる。
持病でなにかと臥せりがちな私にとって、花や花瓶を贈ってもらうことほど喜ばしいことはないのだと気づいた。
そうして贈る人の気持ちに思いを馳せたとき、私の心はこの上もなく満たされるのだ。
主人の贈ってくれたフラワーベースは一輪挿しなので、摘む花を選びそうだけども、これからもっと活用していきたい。