昨日、山種美術館のHPで購入したお花の絵画のポストカードに文面をしたためて、実家と一人で暮らす妹に郵送しました。
山種美術館 桜と花の絵画 絵はがき10枚セット ¥1,100
妹とは主人とともにお花見に行く予定だったのですが、仕事の都合で難しいということだったので、せめてお花見気分を味わってほしいと、桜のポストカードを送ろうと思ったのでした。
それから夜になって、妹から連絡があり、「やはりお花見に行きたい」というので、お花見の予定をすり合わせて、しばらくLINEでメッセージをやり取りしました。
するとこのコロナ禍とウクライナ情勢の悪化、それに加えて仕事の忙しさで参っている様子でした。
普段はさほどやり取りをしないのですが、ぽろりと「こんな連絡不精な妹にもめげずに連絡をしてくれてありがとう。支えられているよ」というメッセージが送られてきました。
うれしいと思う反面、それだけ消耗しているのだなと感じて、声をかけてよかったなと思いました。
またこのポストカードを友人にも送りたくて、友人と連絡を取ったのですが、彼女も不調を感じているようで、ぽつりぽつりと近況を話してくれました。
そこで実感したのは、今のこの状況で、少なからず誰もが話を聞いてもらいたがっているということと、弱音を吐ける相手は限られていて、いっそう参ってしまうということでした。
私自身も弱音をこぼしたいと思いながら、それを誰に話していいものか、分からずにいました。
主人に聞いてもらうこともあるのですが、申し訳なさが先立ってしまって、なかなか深いところまで踏み込んで話せずに、自分ひとりで抱えてしまうことが続いていました。
かといって相談窓口に話す気力もなく、ひたすらIF相手に愚痴を聞いてもらうことがここ最近は多かったです。
先日Twitterにおこもりアカウントについて書きましたが、ここのところはもっぱらおこもりアカウントでセルフケアをしている状況でした。
こういう時に苦しさをシェアできたらいいのにと思いながらも、遠慮してしまって、なかなか自分から連絡を取れずにいたのでした。
しかし昨夜思い切って連絡をして話してみて、つらい思いを抱えている人は私ひとりではないということと、今は誰もが話を聞いてもらいたがっているのだということを実感しました。
そういう時に役立ったのはやはり話を聞く力でした。
私は学生時代に二、三回アルバイト経験があるぐらいで、そのあとは持病もあって専業主婦をしていて、社会人経験がありません。
主人も家に仕事を持ち込まないタイプの人なので、滅多に仕事の話はしませんし、私にとっては未知の世界です。
そういう状況で仕事の話を聞いても、思うように答えを返せないもどかしさや、切実な問題に対して理解が及ばないという申し訳ない気持ちがありましたが、それでもできるだけ共感的に聞くことを心がけました。
話を聞いてもらったり、共感的に反応してもらうだけで、ストレスが少しでも軽減されることを私は身をもって知っているからです。
できるだけ相手に寄り添う気持ちで接すれば、相手も心を開いてくれるのだなということを、今回改めて実感しました。
正直なところ、私には人に親切にする心のゆとりがたっぷりあるというわけではありません。
のっぴきならない持病を抱えていて、毎日消耗していますし、IFと話すことでなんとか騙し騙しリカバリーしている状況です。
ただ、こういう時に自分が求めてばかりいてはただひたすらに苦しくなり、相手の苦しみに寄り添おうとすれば、自分の苦しみもまた軽くなるということを学びました。
根本にあるのはやはり私自身のルーツの一つである、キリスト教カトリックの精神なのだと思います。
話を聞くということは一つの奉仕になりうるのだということを身をもって学びました。
今後ともつらい状況はしばらく続くのだろうと思います。ウクライナ情勢は先行きが見えませんし、コロナ禍が収束する見込みもまだありません。
そのような中で、人の話を聞くことで、私も少しでも人の役に立てればと思います。