雪兎の小部屋

病弱専業主婦の日々

2020.04.18 おのが何をいかにしたかを 自らに問うべし

昼間に出会ったとある記事を読んで、なんだか世の中がギスギスしているなぁと感じました。

それはコロナウイルスによって人々が他人の言動に過敏になり、いつも以上に怒りを覚えて、それを見境もなくネットという場にぶつけてしまうことが多いからなのではないかと思います。

自分の云いようのない不安や不満が怒りとなって噴出し、本来巻きこまなくてもいい人を巻きこんでしまうということは恐ろしいことです。

 

まずは自分の不安や心の痛みと向き合い、それをできるだけ自分自身で慰撫することに努めねばなりませんし、こういう時こそ許容の心を忘れずにいたいなと、改めて自分を戒めた日となりました。

こういう状況では、人は当てになりませんし、当てにしてしまうと、人が自分を満たしてくれないことに対して怒りの気持ちが湧いてきてしまいます。

 

そういうときにやはり力になってくれるのは、人を許容することを説く宗教の力なのではないかと私は思います。

私は基本的には神道を奉じていて、趣味でキリスト教や、仏教の本を読んだりしていますが、こういう時に下支えしてくれるものがあるのはやはりありがたいです。

他(ひと)の過ちを見るなかれ

他の作さざるを責めるなかれ

おのが何をいかにしたかを 

自らに問うべし

ーー法句経 

先ほどこの言葉のことをふと思い出したので、今日の振り返りをしてみたいと思います。

ちなみにこの言葉はこちらの本で出会いました。 


 

  

今日は悪天候ということもあって、朝から気力が湧かず、ずいぶんとだらだらしてしまいましたが、「休日こそ心を整えるために家事をしよう」と決めていたのだった、と思い出し、棕櫚帚を手にもって家の掃除をし、その流れでお風呂掃除をしました。

 

やっていることはいつもとそう変わりませんし、何も特別なことはしていないのですが、やはり帚を手にして手を動かしていると、いくらか心も落ち着きます。

そういうことはちょうどひと月前にも記事に書きました。

snowrabbit21.hatenablog.jp

やはり禅宗「一掃除二信心」というのは理にかなっているなと感じます。

 

どうせ家にいるからと、いつもよりたくさんの家事を済ませようと思っても、普段からできていないことは、いざという時に体が動かなくてできないものだなぁということも感じました。

おかげでまだまだ自室は本の山が机の上に積み上っています。

片づけたいはずなのに、気づけばどんどん積み上ってしまい、それを脇目にこうして記事を書く日々を送っています。

買ってはどんどん積み、読んでは積み、読むのに飽きてまた積むので、一向に片づく気配がありません。

そうしているうちにだんだん本を片づけるのが億劫になってしまうのです。

 

だんだんモノが増えていくと知らず知らずのうちにストレスが募り、また本や他のものを買う、の繰り返し。

読書家を自認している方ならそれでもいいのでしょうが、私は読書量もさほど多いわけではありませんし、モノに圧迫されるストレスに弱いので、もう少し管理が行き届く範囲で抑えておきたいです。

せめて今読んでいない非アクティブな本は片づけるなど、心がけたいものですが、普段の行いが悪いので、いざ片づけようと思っても、腰が重くなるばかり。

やはり普段から習慣にしていないことはなかなかできないようです。

改めて日頃の行いの至らなさを感じます。 

 

本ひとつとってみてもこの有様なので、私が人様を非難できる謂れなどどこにもないのはよくお分かりかと思います。

自分を顧みるということが人を許すことにつながると説く法華経の教えは、信ずる宗教の違いを超えて私の心に届きます。

 

そして仏教といえば、リモート飲みをするという主人を脇目にひとりで夕食を摂っていたら、こんな会話がありました。

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夫「禅みたいなごはんだね」

私「この食事をいただく資格はあるのか? と思いながら食べてる」

 

私の頭にもちょうど禅宗の典座のことが頭をよぎっていたのでした。

禅宗では卵やハムはNGですけども、大根、にんじん、キャベツ、しめじのお味噌汁を作るときに禅宗を意識して大根の葉っぱも入れました。

念頭にあったのはこちらの二冊です。


  

 


 

 

禅宗では食前に毎回「五観(ごかん)の偈(げ)」を読むそうです。

一には功の多少を計り彼の来処を量る。

二には己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。

三には嗔(しん)を防ぎ過貪等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。

四には正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。

五には道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜん 為(た)めに応(まさ)に此の食(じき)を受くべし。

(『臨済宗衲観』伊藤古鑑注 其中堂)

 

意訳すると、次のようになります。

一、この食べ物が、どれだけの人々の労苦を経て私の手元に来たのか、思いを馳せて感謝します。

二、私にいただくだけの資格があるかどうかと思いながら、これを受け取ります。

三、おいしいとかまずいとか、好きだとか嫌いだとか、そんな心から離れて、ただ与えられた分をそのままありがたく頂戴します。

四、食事は飢えを癒し、これこそ自分の体を作るものだから、まことに素晴らしい薬と思っていただきます。

五、この食事をいただくのは、仏法を体得して、その仏法を皆さんのために役立てるためであり、他の目的のためではありません。

 

――山川宗玄『禅の知恵に学ぶ』NHK出版、2019年、p102

 

 私は出家はおろか、仏法のなんたるかもよく知らない人間なので、到底すべてを守ることはできませんが、それでも“私にいただくだけの資格があるかどうかと思いながら、これを受け取”るというのは、身につまされることだなと感じます。

 

もっともっと改善できたことはたくさんあった一日だと思いますし、その分こうして気づかされたことも多かった日になりました。

仏教の教えを貫徹することは常人にはできないことですし、私にも到底できそうにありませんが、それでも頭の片隅に置いておくことで、こうして穏やかな気持ちで一日を終えられるのは本当にありがたいことだなと感じます。

 

今後とも宗教の勉強を自分のペースで自分なりに続けながら、地に足着いた生活を第一としつつ、その生活に活かせるものは活かしていきたいと思います。